12月13日(日)、岩手県立視聴覚障がい者情報センター研修室で例会を行いました。
この日は、10月21日に逝去された、岩手県中途失聴・難聴者協会の前理事長、樋下光夫さんを偲んで、功績を振り返り、聴覚障がい者に自動車の運転免許取得の道を切り拓いた樋下さんの「運転免許裁判」について学習しました。当時の新聞記事や写真をパワーポイントで見ながら、この裁判がいかに大きな出来事であったかを学習しました。運転免許裁判について、概要は以下のとおりです。
樋下さんは、こうした功績もあり平成17年に桜内義雄賞を受賞しました。
<樋下光夫氏の運転免許裁判の概要>
ことの発端は昭和42年、当時25歳の樋下さんは、自動二輪車を無免許で運転し警察から略式命令(罰金)を受けました。当時、聴覚障がい者は、道路交通法によって運転免許を取得することができませんでした。樋下さんは仕事をする上で運転免許がどうしても必要でした。樋下さんは無免許による略式命令を拒否し、裁判を申し立てたのです。裁判は、全国の聴覚障がい者やその支援者に注目される中、最高裁まで争われましたが、昭和49年に敗訴となりました。しかし、この裁判中の昭和48年、警察庁は通達を出し、聴力検査に補聴器の使用を認めたのです。その結果、樋下さんをはじめ、全国で多くの聴覚障がい者が自動車の免許を取得することができました。樋下さんは裁判を振り返って「裁判では負けたけれど、実(免許)は取れた」と語ったそうです。
この裁判により、聴覚障がい者が自動車の運転免許を取得できるようになり、職業選択の幅が大きく広がりました。この裁判は、その他にもいろいろな意味で画期的でした。まず、この裁判で弁護士を務めたのが、日本で初めての聴覚障がい者の弁護士である松本晶行氏であったこと。また、裁判で手話通訳が認められたのも初めてのことでした。
この裁判は、その後の聴覚障がい者のさまざまな運動にも大きな影響を及ぼした歴史的な出来事だったのです。